準備
今回修理が行われるのは、5番と6番の袋。
左手の6番の袋の屋根が下方へ流れ、ふたつの袋を仕切る壁もカーブしつつ前方に倒れて右手の5番の袋が圧迫されているためです。
あと2~3年は問題なく使える状態ではあるそうですが、登り窯、しかも北窯のように大型のものの作り方を知る機会は滅多にないもの。若い陶工たちにそれを教え、次世代へ引き継いでいく目的も兼ねているとのことでした。
まずは袋の入口付近に積まれているレンガやブーラを運び出し、袋の中に組まれている棚を解体して同様に運び出します。どれも重いはずなのですが、陶工の手から手へ次々と手渡され、パレットに積まれていくのはかなりのスピード。
この日はあいにくの雨で、道具類が濡れないようシートをかけながら作業が進められました。
こちらが棚をすべて撤去した後の5番の袋の様子。壁がせり出してきているのがおわかりいただけるでしょうか。
この後床面を覆うように板を敷き、その上にさらにブルーシートを敷いて準備は完了。
いよいよ解体です。
屋根の解体(破壊)、運び出し
解体はどこから始まるのか。その答えは入口のアーチ部分でした。中央にあるレンガをハンマーで叩いて抜くと、ほかのレンガが一気に外れます。
レンガの跡が残る屋根にハンマーが入れられ、本格的な解体作業が始まりました。
5番と6番では、断面に違いがあります。
5番の断面には丸い棒状の土が積まれているのが見えますが、6番の断面にはそれがありません。
通称「にんじん」と呼ばれるこの棒状の粘土で屋根を作るのは韓国の登り窯の構築方法で、以前に屋根を修理した際、新しい方法として試したのだそう。
解体の進みは6番に比べてとても早く、約2倍の速さで進んでいました。
ハンマーで叩いて崩してくため周囲には土煙がもうもうと立ちこめ、視界も悪くマスクをしていても息苦しいほどです。
陶工たちの足元はあっという間に瓦礫の山に。大きなものは抱えて、小さく砕けたものはバケツに集めて運び出します。行先は、きれいに清掃された登り窯の入口近くの広場。
瓦礫は当然廃棄されるものと考えていた私は、「なぜここに集めるのだろう」と不思議に思ってしまったのですが・・・。驚きの方法で再利用されるのです。
その様子は次回詳しくお伝えします。
夕方には屋根がほぼ取り除かれた状態になりました。
壁の解体、運び出し
「狭間(さま)」と呼ばれる火の通り道を備えた袋と袋を仕切る壁は、耐火レンガを積んで作られています。
こちらは少しの力で外すことができ、ハンマーで壊す必要はないので、解体はスムーズに進んでいました。
割れてしまったものや傷みのひどいもの以外は再利用されるようで、陶工たちの手で手際よくパレットに積まれ、運び出されていきます。
狭間周辺は、窯焚きの際の自然釉(高温の炎で薪の灰が溶け、釉薬のようになったもの)がこびりついて癒着しているものも多く、時折ハンマーの出番も。
床部分のものを残し、きれいに取り除かれていきます。
入口の石組みの解体
入口の石組みはブロックの基礎の上に大小の琉球石灰岩を積んで作られています。こちらの解体はバールやハンマー、ドリルを使って進められました。
登り窯の足元は傾斜があるため、大きく重い石やブロックを扱うのは危険と隣り合わせ。いつもに増して慎重に、声をかけあいながらの作業でした。
基礎のブロックは金属の棒でもがっちりと固定されており、ドリルやハンマー、てこの原理も総動員して何とか解体。
こちらも再利用までの間一旦窯の外へ運ばれます。
屋根と壁、石組みまですべての解体が終わった状態がこちら。古い遺跡が姿を現したような、どことなく厳かな雰囲気が感じられました。
まとめ
2019年の年明けすぐに始められた解体作業。2018年11月末の火入れから窯出し、12月半ばの陶器市から年末の水簸(すいひ)と、大がかりな共同作業が続いています。
北窯のサイクルは登り窯への年4回の火入れを中心に動いており、次の火入れは3月26日。2つの袋の修理を、3か月弱で終わらせなければならない計算なのです。
すべてを壊して作り直すわけではないため、解体は残りの部分に負荷がかかって傷んでしまわないよう慎重に行わなければなりません。この部分までは解体し、ここからは残す、というラインを事前に確認し、境界に近い部分はドリルなどで細かく削っていました。作業を先導する親方の表情も真剣そのもの。
陶土の乾燥や水簸などの作業も同時進行しつつ、解体作業は約3日間でほぼすべて終了しました。この後、いよいよ窯の修理が始まります。
屋根の瓦礫を細かく砕いたものを使う「にんじん」作りや基礎部分の修理の様子から、順を追ってお伝えしたいと思います。
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