6月23日、慰霊の日。
沖縄県の休日であるこの日がどんなものなのか、なぜ6月23日なのか。また、沖縄県内各地で行われる式典の様子も、ひめゆりの塔を中心にお伝えします。
そのほか、「平和の光の柱」などの関連行事の情報も掲載しています。
沖縄の持つ戦争の記憶はとても重いものですが、それだけに、その場に訪れて感じること、心に刻まれるものははかり知れません。この記事が、沖縄の慰霊の日と戦争の記憶を知っていただく第一歩になれば幸いです。
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慰霊の日とは
第二次世界大戦末期、日本で唯一地上戦が行われた沖縄。約3カ月の間に住民の4人に1人、アメリカ兵や日本兵も含めれば20万人以上が命を落としたと言われています。
毎年6月23日は、沖縄戦で犠牲になった人々に祈りを捧げ、平和を願う、沖縄県の休日です。様々な施設で慰霊祭が催されるほか、正午には県内各地で1分間の黙祷(もくとう)も行われます。
沖縄県に属する公的機関や学校はお休み
慰霊の日は沖縄県独自のもので、日本の休日ではありません。国に属する機関以外の沖縄県庁や市町村役場、公立学校は休みになりますが、私立の学校や企業などは休みではない場合もあります。
飲食店なども対応が分かれますが、旧盆の最終日に比べると多くの店が営業している印象です。
慰霊の日はアメリカ統治下にあった本土復帰前の沖縄(琉球政府)の休日でした。1972年の本土復帰後は日本の法律が適用されるため、沖縄独自のものである慰霊の日は休日から除外されることになってしまいます。ただし条例で沖縄県職員は継続して休みとなり、市町村もそれに倣っていました。
1974年10月21日に沖縄県が「沖縄県慰霊の日を定める条例」を公布、県の休日となったのです。
終戦の日の8月15日とは何が違うの?
1945年8月15日は昭和天皇がポツダム宣言(日本への降伏要求)の受諾、つまり日本の降伏をラジオによる玉音放送(ぎょくおんほうそう/天皇の肉声=玉音の放送)を通じ全日本国民に公表した日。日本では、事実上第二次世界大戦が終結した日ととらえられています。
1945年6月23日は、沖縄に配備されていた日本陸軍第32軍司令官の牛島満(うしじまみつる)大将と参謀長の長勇(ちょういさむ)中将が自決(自殺)した日とされていることをもって、沖縄での日本軍の組織的戦闘が終わった日とされています。
しかし、各部隊に出された最後の命令に武装解除や降伏を促す内容はなく、各部隊で上級者の指揮に従って戦闘を継続するよう記されていました。また、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱めを受くることなく、悠久(ゆうきゅう)の大義に生くべし」という一文も長中将の手により付け加えられ、これ以後も悲劇は終わることなく続いてしまいます。
1961年の制定当初は6月22日だった慰霊の日
実は、1961年の制定の際、慰霊の日は6月22日でした。牛島大将らが自決したのは終戦当時のアメリカ軍の資料から22日の午前4時前後と考えられていたからです。それから4年後の1965年、当時の日本軍の大本営発表や自決現場に立ち会った沖縄戦当時の高級参謀八原博通(やはらひろみち)元大佐の証言から、牛島大将らの自決は23日という見方が広がり、慰霊の日は現在の6月23日へ変更されました。
1988年には週休二日制推進のために地方自治法が改正され、地方独自の休日が認められないことになります。慰霊の日もいったんは休日廃止の条例案が提出され、沖縄全県を巻き込む反対のうねりが起きました。
そんな折、1990年に歴代首相として初めて沖縄全戦没者追悼式に参列した海部俊樹(かいふとしき)首相が慰霊の日の存続検討を明言。1991年には地方自治法が「特別な歴史的、社会的意義を有し、住民がこぞって記念することが定着している日」であれば休日とできると再改正され、慰霊の日は現在も沖縄県の休日となっているのです。
県内各地で行われる慰霊祭
慰霊の日には、県内の様々な施設や慰霊塔で慰霊祭が行われます。2020年は新型コロナウイルス感染症の影響で開催中止・規模縮小となり、参列者が限られることがほとんどでしたが、例年は遺族や関係者のみならず、誰もが訪れ、手を合わせることができます。
ひめゆりの塔で行われる慰霊祭
ひめゆりの塔は、沖縄戦で命を落とした沖縄師範学校女子部(女師)と沖縄県立第一高等女学校(一高女)の教師と生徒たちの慰霊塔。沖縄陸軍病院に動員された「ひめゆり学徒隊」240名(教師18名・生徒222名)のうちの死者136名(教師13名・生徒123名)と動員外の死者91名(教師3名・生徒88名)を合わせた227名の名前が刻まれています。塔のほど近くにはひめゆり平和祈念資料館が併設され、忘れてはならない記憶を今に伝えています。
例年は遺族や同窓生約300名が足を運ぶ式典ですが、今年は新型コロナウイルス感染症の影響で参列者を約20名までに縮小し行われました。
元学徒で、ひめゆり平和祈念資料館の元館長である島袋淑子(しまぶくろよしこ)さんは亡くなった学友たちに思いを馳せ、その死を心から悼みながら
「本当に色々な思いが表れてくる日。 戦争は地震や津波といった天災ではなく、人が起こすもの。どんなことがあっても、戦争はだめです。そう言えない世の中になってしまわないよう、平和がどんなに大事で、人の命がどんなに大事か、若い方々にしっかり伝えていきたい」
と語りました。
2018年に同館長に就任した普天間朝佳(ふてんまちょうけい)さんは
「自分たちの体験を次の世代にさせてはいけない、という思いで資料館を立ち上げ、運営してきたひめゆり学徒たち。託されたその思いを受け継ぎ、戦争から遠くなった世代に関心を持って主体的に学んでもらえるよう、伝え方を模索しながら進んで行く」
と、2021年4月に控えたリニューアルを見据えています。
ひめゆり慰霊祭
開催時間 11:00~、一般焼香16:00まで受付 ※例年は14:00~の開催
開催場所 ひめゆりの塔
住所 901-0344 沖縄県糸満市伊原671-1
Tel 098-997-2100
ひめゆり平和祈念資料館の無料公開
2020年6月23日9:00~17:25(最終入館17:00)
沖縄全戦没者追悼式
沖縄県と沖縄県議会が行う戦没者追悼式。沖縄戦の最後の激戦地となった糸満市摩文仁(いとまんしまぶに)にある平和祈念公園式典広場で開催されます。
追悼式の趣旨
「我が県では、太平洋戦争において、一般住民をも巻き込んだ悲惨な地上戦となり、多くの尊い生命とかけがえのない財産及び文化遺産を失った。このような冷厳な歴史的事実にかんがみ、戦没者のみ霊(たま)を慰めるとともに、世界の恒久平和を願う沖縄の心を発信する」
通常は首相や衆参両院議長をはじめ県内外から多くの参列があり、シャトルバスなども運行され、一般市民も含め5000人規模の式典となります。
今年は新型コロナウイルス感染症の影響で県外からの参列は見送られ、招待者161名のみでの開催。国連の軍縮担当上級代表中満泉事務次長、安倍晋三首相、松井一実広島市長、田上富久長崎市長はそれぞれビデオメッセージを寄せました。
沖縄戦全戦没者追悼式
開催時間 11:50~12:40
開催場所 平和祈念公園式典広場
住所 〒901-0333 沖縄県糸満市摩文仁444
追悼式に関する問い合わせ Tel 098-866-2428(沖縄県子ども生活福祉部保護・援護課)
通常の開催の場合、政府要人の参列もあり、追悼式当日は交通規制が敷かれて一般車両は公園内に入れなくなります。沖縄県庁からの無料シャトルバス(8:00~10:00、10~30分の感覚で運行、予約不要)またはバスやタクシーなどの公共交通機関でお出かけください。
参考:沖縄県 令和元年沖縄全戦没者追悼式パンフレット
関連行事
沖縄全戦没者追悼式前夜祭
開催日時 2020年6月22日15:00~15:30
開催場所:沖縄平和祈念堂(平和祈念公園内)
内容:戦没者のみ霊を慰め、世界の恒久平和を願い、平和の鐘の献鐘、琉球古典音楽の献奏を行う
主催:公益財団法人沖縄協会
Tel 03-5283-5111
平和の光の柱
開催日時:2020年6月22日・23日20:00~22:00
開催場所:平和の広場(平和祈念公園内)
内容:平和の礎に刻まれた日本、アメリカ、イギリス、朝鮮半島、台湾の5か国・地域の戦没者を表す5本のサーチライトを純白無垢の「平和の光の柱」として沖縄戦終焉の地摩文仁の上空に照射する。これにより敵味方の別なく沖縄戦の戦没者を慰霊し、沖縄の平和の思いを発信する
主催:公益財団法人沖縄県平和祈念財団
Tel 098-997-2765
これに合わせ、平和の礎の最奥部にある平和の広場の「さざなみの池」中央に、「平和の火」も灯されます。
沖縄戦における最初の米軍上陸地となった座間味村阿嘉島(ざまみそんあかじま)の火、被爆地である広島市の「平和の灯(ともしび)」、長崎市の「誓いの火」を合わせたもの。
普段は広場の地下室で保存され、慰霊の日をはじめ、特別な日にのみ平和の広場で灯されます。
国籍や人種、軍人・非軍人といったあらゆる区別なく、沖縄戦で亡くなった方々の名前を刻んだ1220面の「刻銘碑(こくめいひ)」が、「平和の波永遠なれ(Everlasting waves of peace)」の願いのもと、広がる波のように放射状に配置された広場。
1995年の設置以降戦没者申告票などにもとづき毎年追加刻銘が行われ、2020年6月22日現在24万1593人の名前が刻まれています。
沖縄県公式ページ「平和の礎」刻銘者数
沖縄県平和祈念資料館の無料公開
2020年6月23日9:00~17:00(最終入館16:30)
沖縄平和祈念堂の無料公開
2020年6月23日9:00~17:00
そのほか県内で慰霊祭が行われる慰霊塔や戦跡一覧(2020年)
魂魄の塔
戦後最初に住民の手によって建立された慰霊塔。周辺の道路や畑の中などに散乱していた遺骨を祀っている
〒901-0335 沖縄県糸満市米須1441-3
ずゐせんの塔
負傷兵の看護に動員され犠牲となった、沖縄県立首里高等女学校の生徒で構成された瑞泉(ずいせん)学徒隊の慰霊塔
〒901-0335 沖縄県糸満市米須1156
公益財団法人沖縄県平和祈念財団 各都道府県慰霊塔・碑一覧より
南燈慰霊之塔
1931~45年に戦没された沖縄県立第三中学校の卒業生・在校生339名、県立第三高等女学校の卒業生・在校生36名、計375名が合祀されている塔
〒905-0018 沖縄県名護市大西5-17-1
南冥の塔
1954年9月、日系二世の米兵ヤマモト・タツオ氏が摩文仁区民とともに身元不明の兵士や住民の遺骨1万2000柱を収骨して祀った塔
〒901-0333 沖縄県糸満市摩文仁(平和祈念公園外れ)
公益財団法人沖縄県平和祈念財団 各都道府県慰霊塔・碑一覧より
海鳴りの像
対馬丸(つしままる)を除く沖縄戦時遭難船舶25隻の犠牲者1927名を祀った塔
〒900-0031 沖縄県那覇市若狭1-26-5
開南健児之塔
私立開南中学校の沖縄戦戦没者を祀った塔
〒901-0335 沖縄県糸満市字米須1441-3
韓国人慰霊塔
日本軍に強制徴用され犠牲となった朝鮮半島出身者を祀った塔
〒901-0333 沖縄県糸満市摩文仁662-5
少年護郷隊之塔
〒905-0018 沖縄県名護市大西
沖縄工業健児之塔
沖縄戦に動員され命を落とした沖縄工業学校の生徒のための慰霊塔
〒901-0333 沖縄県糸満市摩文仁628
南洋群島戦没者慰霊碑
移民先のサイパンなどで戦争の犠牲となった沖縄県民の慰霊碑
〒902-0078 沖縄県那覇市識名2-20-12
島守の塔
沖縄で地上戦が始まる直前の1945年に県知事として赴任した島田叡(しまだあきら)さん、1943年から沖縄県警察部長を務めた荒井退造(あらいたいぞう)さんをはじめ、住民たちの避難・保護に尽力し、殉職した沖縄県職員469名を祀った塔
〒901-0333 糸満市摩文仁(平和祈念公園内)
沖縄師範健児之塔
沖縄戦で動員され命を落とした沖縄師範学校職員生徒の慰霊塔
〒901-0333 沖縄県糸満市摩文仁548
梯梧之塔
沖縄昭和高等女学校の学生たちで構成され、第62師団野戦病院で負傷兵の看護にあたった梯梧(でいご)学徒隊の慰霊塔
〒901-0335 糸満市米須1150(ひめゆり第一駐車場奥)
白梅之塔
沖縄県立第二高等女学校の4年生で構成され、野戦病院で看護にあたった白梅学徒隊はじめ犠牲となった教員、在校生、同窓生を祀った塔
〒901-0362 沖縄県糸満市真栄里1837-1
和魂の塔
動員されるなどで命を落とした那覇市立商工学校の生徒職員165名の慰霊塔
〒900-0032 沖縄県那覇市松山1-16-1
積徳高等女学校慰霊之碑
積徳高等女学校の教職員・在校生・卒業生・学徒看護隊に動員された4年生の慰霊塔
〒900-0032 沖縄県那覇市松山1-9-1
二中健児の塔
動員され命を落とした沖縄県立第二中学校職員生徒の安らかな眠りと平和の希求のために建立
〒900-0023 沖縄県那覇市楚辺1-2-54
一中健児之塔
動員され命を落とした沖縄県立第一中学の生徒・教員を祀る塔
903-0815 沖縄県那覇市金城町1-7
これらを含め、県内各地に442の慰霊塔や慰霊碑があります。
慰霊の日に私たちができること
沖縄の経験した苛烈な戦争の跡が刻まれた慰霊塔や慰霊碑、戦跡などを訪れ、花を手向けて祈ることは、戦争とは何か、平和とは何かを考えるうえでとても大切な経験になると思います。
慰霊の日だからこそ感じられることも多々ありますので、6月23日にぜひ足を運んでみてください。
その際には、湿度も気温も高く、日中は日差しもかなり強いので、熱中症や紫外線への対策は万全にしてくださいね。屋根などもない場合がほとんどで蚊などの虫も多いため、虫よけスプレーや虫刺されの薬などもお持ちください。
もし訪れることが難しいなら、正午に黙祷(もくとう)を。沖縄では1分間が通例となっていますが、もっと短い時間でも、戦争のために沖縄で命を落とした多くの方々を思い、祈っていただければと思います。
また、平和祈念資料館やひめゆり平和祈念資料館は入館料が無料になります。
平和祈念資料館には交通規制が解ける午後から、ひめゆり平和祈念資料館は慰霊祭が行われる午後の混雑を避けるため午前中早めの時間帯に訪れるのがおすすめです。
慰霊の日は海も鎮魂の場
沖縄県民は、慰霊の日には海に入ることを控えます。
戦争を体験した方々は、「戦争が終わった後もしばらく海に近づけなかった」「砂浜に立つと当時を思い出してしまう」と語ります。沖縄戦では海も惨劇の舞台となりました。多くの血が流れ、命が失われ、苦しみの声がやまない海の景色は想像を絶します。
慰霊の日には、海も鎮魂の場と考えて行動するよう心がけていただけたらと思います。
まとめ
22日は平和祈念公園内の平和の礎や摩文仁の丘の霊域、平和の光の柱の会場へ、23日はひめゆりの塔の慰霊祭へ伺いました。
雨の中刻銘碑を水で清め、花ばかりでなく飲み物やお菓子を供えて祈る方々の姿が絶えない平和の礎に刻まれた犠牲者ひとりひとりの名前。その中には、「○○の長男」「○○の妹」といった、名前をつける間もなく失われてしまった小さな命も少なくありません。
戦後、「自分だけが生き残ってしまった」という罪悪感にさいなまれながらも戦争体験を語り続けた元ひめゆり学徒の方々。慰霊祭では亡くなった学友がそこにいるように語りかけ、涙をこぼしておられました。
終わることのない沖縄の「戦後」と、失われた24万という命の重みを改めて目の当たりにし、場所と人の持つ記憶の力を感じた2日間でした。
第二次世界大戦唯一の地上戦が行われた沖縄は、戦争という75年前のできごとや平和の大切さが、頭にではなく心に刻まれる数少ない場所のひとつではないかと思います。
沖縄に訪れる際には、沖縄の持つそんな側面にも少しだけ触れていただけたら、と願ってやみません。
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