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沖縄戦体験者が語る衝撃の事実

 2016/01/18 くらし コラム 伊江島 歴史 沖縄ガイド 沖縄本島北部近隣離島 米軍基地
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のーリー太平洋戦争と伊江島資料より引用
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主人のお父さん(のーりーおじい)は戦争体験者です。

昭和20年4月16日米軍が伊江島に上陸した、その時おじぃはまだ10歳。。。

母親を早くに亡くしたため、家族は父親と、てる14歳、ヒロ12歳、の~り~10歳、ちぃ8歳、よしこ7歳、たけ3歳、大人1名、子供6名の7人家族。

子供ながらに感じたこと、貴重な話をたくさん聞けました。今では想像できないような、ちょっと気分が悪くなってしまうようなお話しかもしれません。体験談は、やはり、真実なのです。なので、後世に伝えていきたいと思います。

おじぃ

伊江島空港

のーりー沖縄公文書館より引用出典:沖縄公文書館

日本軍(友軍)は伊江島に空港建設を始めました

島民も総出で作業に参加し、小学生から勤労奉仕活動をしました。島中の小石を集め滑走路を作る。アスファルトなんか無い時代ですから、全て手作業でした。の~り~もいとこ兄さん達も毎日出掛けて行きました。島民は日本軍(友軍)と一緒になって働ける喜びがありました。

金榮兄さん「の~り~、俺達は軍隊に志願する!」
金光兄さん「お国のために戦って島のみんなを助ける!」そう言っていとこ兄さん2人は志願兵になっていったそうです。

金榮兄さん…パプアニューギニアで戦死。
金光兄さん…伊江島で戦死。

のーりー空から見た沖縄戦 沖縄戦前後の飛行場より引用空から見た沖縄戦 出典:沖縄戦前後の飛行場

戦況が厳しくなるにつれ、今度は逆に空港を潰せ!という命令が下りました。

米軍に空港を奪われてしまう為。日本軍(友軍)も島民も一生懸命作った滑走路を今度は米軍に見つからないように隠そうとしました。その時すでに米軍側は伊江島に空港が建設されていることは分かっていたそうです。せっかく作ったものを潰す…子供心に疑問だけが残りました。

それでも、この時は島民みんなが信じていました。日本軍(友軍)は我々を守ってくれると。

学童疎開

学童疎開の制度もありましたが、お父さんが死ぬなら家族みんなで死のうと言って、家族全員が島に残りました。

台湾に疎開した人も結局は島に戻りたいという気持ちから30名くらい島に戻って来ました。戻った人達は、砲弾や空襲により、ほぼ全員戦死したそうです。

空襲

のーリー太平洋戦争と伊江島資料より引用出典:太平洋戦争と伊江島資料

の~り~は伊江島の第2空襲までは島に住んでいました。

学校の近くの防空壕は、日本軍(友軍)の基地になっていました。お父さんが家の防空壕は狙われるかも知れない。と言って戦車壕と呼ばれ日本軍(友軍)の戦車が置いてある壕に逃げました。

壕と言ってもその壕はまだ準備段階の壕で、入り口付近の福木の木を切り倒し、太い幹をやぐらのように組んで、その上から草をかけてカモフラージュしてあるだけでした。兵隊が2名。双眼鏡を持って高窓のようにあいた入り口から米軍機を見張っていたそうです。住民は兵隊さんと一緒なら助けてくれる。という思いがあり、日本軍(友軍)の潜んでいる壕に身を寄せたそうです。

お昼の12時。最後の1発が家の防空壕に当たりました。あわてて確認しに行ったところ、大家(うふやー)のおじさんが頭から血を流し体半分が土の中に埋まっていたそうです。

奇跡的にまだ息はあったので、みんなで一緒に掘り起こし助け出しました。壕から壕へと親族の安否確認にまわっていた親戚に自分たち家族の無事を伝えました。家族とは一緒にいましたが、逃げ惑う中でだんだん親戚や友人の安否は分からなくなっていったそうです。

戦争にも時間割があることを始めて知りました。午前の爆撃は昼の12時まで。午後の爆撃は夕方5時まで。爆撃のない時間帯に食料を調達したり、避難したり、常に死と隣り合わせの恐怖に耐えながら生活していたそうです。

これで死になさい

信じていた日本軍(友軍)は、1つの壕に2~3個ずつの手榴弾を渡してきました。

アメリカに捕まるようなことがあってはならないと。「これで死になさい。」と言って手榴弾を配ったそうです。でも、その事実を戦後になっても政府はみとめません。「これで身を守りなさい。」と言って手渡した。と言うそうです。

それは嘘です。生き証人がいます。集団自決した人の霊も報われないさ~。おじぃはため息をついています。

避難

伊江島には高山丸と西安丸の2隻の船がありました。

西安丸は日本軍に取られたため、住民の避難船は高山丸1隻のみ。満潮にならないと船が岸に付けられず、満潮時を待って1隻の船に住民が押し寄せすし詰め状態。定員オーバーの船は、通常30分程の航路を5時間かけて潮の流れるままに流され、渡久地港に漂着しました。渡久地で馬車を借りて、年寄り子供を乗せて真っ暗な道を4時間程歩く。

この日は、きれいな月夜でした。の~り~は月に助けられてると思いました。

山道をひたすら歩き、3歳の弟た~けをヒロ姉さんがおんぶして今帰仁与那嶺の公民館に避難しました。そこにいた日本軍(友軍)は、避難民は牛馬小屋に入れ!と言い強制的に臭い小屋に入れられました。そこで1泊藁を敷いて寝ることになりました。

翌日、公民館で民間の空き家を予約し、おじぃおばぁだけが残っている中曽根さんのお宅へ向かいました。アルゼンチンから移住民の離れが空いていて、そこに家族でお世話になりました。長男の中曽根ベットさんは後の沖縄工業の校長先生だそうです。次男はけんじさん。山奥の民家にも空襲はありました。空襲が来るたびに、家族で山の中に避難しました。爆撃音や爆風が飛んできて、恐ろしい思いをしたそうです。

今帰仁は山深いから助かったそうです。

終戦

よくテレビで見るラジオの玉音放送を聞いたわけでもなく、終戦を肌で感じたそうです。

今帰仁で日本軍の巡視船をアメリカに取られて、アメリカの基地がどんどん建ち、戦争に負けたことを感じました。

成年男子として、お父さん(今帰仁上泊)、兄さん(羽路平良)、うふやーのおじさんが、それぞれ別々の場所で捕虜に取られ、金網の中に連れて行かれてしまいました。金網越しに、お父さんが「明日、みんなどこかに連れていかれるはず!」と言いました。お父さんは殺されるかもしれない状況で金網の下が砂になっているところを掘って夜中の12時に逃げ出しました。子供だけ残して行けない。母親がいない為、父親の子を思う気持ちの強さを知りました。

収容所生活

のーりーウィキペディアより引用出典:ウィキペディア

GMC戦闘用トラックに乗せられ、今帰仁、本部、伊江島出身者は、大浦湾に連れて行かれました。この日、お父さんは命がけで金網の中に戻り、配給用の米を2袋、盗み出し家族の食料を確保したそうです。

お父さんは、大浦湾の森の中に、家族が暮らせる小さな茅葺屋根の家を建てました。

ところが、すぐに久志村の収容所に引越し。久志村は水が上等だったため飲み水に不自由はありませんでした。

配給はアメリカの食べ物が与えられ、高カロリーで栄養のある缶詰が多かったそうです。日本人の体質に合わないものも多く、下痢をしたり気分が悪くなる人がいたため、毒が入っているかも知れないと噂が広がり、栄養不足や飢餓で亡くなった方もいるそうです。

の~り~は恐いもの知らずで、いつもアメリカ人からもらったチーズを食べて栄養を付けたため、兄弟の中で唯一マラリアにかからなかったそうです。

ロウが塗られている箱に戦闘用の野戦食が入っており、中身はタバコ5本、チーズ、チョコ、ビスケットでした。いつも近所のおじさんに呼ばれ、タバコとチーズを交換してもらったそうです。

ヒロ姉さんがマラリアで亡くなりました。弟のた~けも毎日ガタガタ震え、高熱に苦しめられました。ヒロ姉さんの遺骨は収容所が閉鎖される直前に掘り起こし、持ち帰ることが出来ました。間に合わなかった人々は今も米軍基地内に取り残されたまま、遺骨が数多く残っています。

飢餓

食べるものが無く、困ったときは、ソテツを食べました。ソテツの皮をカマで切って、中の実を一晩ザルに入れて水につける(あく抜き)柔らかくなってポキッと折れるまで置いておいて、アメリカのジャンボ牛肉缶詰の空き缶で炊く。大きい缶だったので、そのまま取っ手を付けて鍋として利用していたそうです。

ほんの少し、牛肉の香りが付いて意外とおいしかったそうです。

伊江島へ

のーりーウィキペディアより引用2出典:ウィキペディア

終戦2年目、島民の伊江島帰還の許可が下り、生まれ島へ帰れる喜びと、残された人の安否確認の為、皆一斉に帰島していきました。

LCT上陸用舟艇に乗り込み、伊江島へ帰島しました。アメリカが置いていった、コンセット(かまぼこ型のトタンアーチの建物)100m、50mなど大きさはさまざまでしたが、たくさん残されていました。集落は更地にされ、村は完全に様変わりしていたそうです。村民は各地区ごとに分けられしばらくはコンセットに住まわされました。

自分の土地の畑は草ボーボー。開墾の始まりは、家族総出で農作業。かずらの植え付けからでした。何もないところからの始まりだったため、縄や農工具などすべて手作りだったそうです。

授業は遺骨収集

の~り~も中学生。授業は毎日午前中で切り上げ、午後からは課外授業に向かいます。

壕の遺骨拾いです。誰の骨か分からない、無残な壕の中へ入っては遺骨を掘り起こす。頭蓋骨は頭蓋骨置き場へ。骨盤や足の骨であろう部分は下の方。腕や指などは上の方。と置場が決められ、頭蓋骨を大きな麻袋に入れガンガラ ガンガラ引きずって運んだそうです。

皮膚や髪の毛が残っている場合はいったん埋めて、また後日掘り起こし、それでも残っているものは海で洗い納骨する。現代の中学生がこんなこと出来ますか?大人だって出来ないでしょう。

手榴弾

遺骨収集をしていると、不発弾や手榴弾を拾うそうです。

ピンさえ抜かなければ爆発しないので、家に持ち帰りました。学校が休みになると友達や兄弟と海へ行き手榴弾のピンを引き抜き海へ投げる。爆発した後、たくさんの魚が浮かんできたら海へ一斉に飛び込む。大漁大漁と夕食のおかずを獲って帰ったそうです。中学生が手榴弾を扱うなんて、今の世の中ではありえない光景です

の~り~売られる

中学3年生にもなると、立派な大人扱いに。の~り~は次男でしたので分家となります。年間3000円と豚1頭で今帰仁運天港に売られてしまいました。

奉公先のオヤジは酒好きな人でした。運天港から伊平屋までサバニ船にエンジンを付けて4時間買い出しに行っていました。牛、ヤギ、豚、馬車などを買い付ける仕事でした。オヤジは酒を飲んで船上で寝ているだけ。の~り~は一生懸命働きました。

途中でエンジンが止まってしまい、古宇利島から辺土名まで流されたこともあるそうです。その時は緊急用の帆を立てて、誰かに気付いてもらえないか運任せだったそうです。

ここから、の~り~の沖縄本島生活が始まったのでした。

まとめ

よく映画や本で出てくる銃で撃たれた!とか爆撃で吹き飛ばされた!といった残酷なシーンはなかったものの、生き残ったの~り~おじぃのリアルな体験話でした。

人が撃たれたり、死んでいく姿も見ているはずですが、おじぃの記憶からは消されてしまっているのかも知れません。私は遺骨収集が課外授業で行われていたという話が一番心に残りました。

怖いとか気持ち悪いとか悲しいとか、そんな感情も無くなってしまうそうです。やらなければ終わらないし、やってもやっても出てくる死体の山。戦争は人の感情さえも奪い去ってしまう恐ろしいものです。

この時代を必死に生きた沖縄県民。

先人たちが築き上げてくれた“平和”という時代に、私たちはもっと感謝をしないといけないと思いました。

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ライター紹介 ライター一覧

ふーこ

ふーこ

人生楽ありゃ苦もあるさ。
2014年。夫婦で主人の故郷沖縄へ移住、長男の嫁。
リゾートホテルのショップ運営課に勤務しながら叔父の経営する釣具屋の広報部長も担当。→ 坂尾釣具店

『沖縄の長男の嫁は苦労する』というジンクスは本当だった!?文化の違いに戸惑い、迷い、思い、考え、感じるままに、日々成長中。知らないことの方が多すぎて、毎日が驚きの連続!そんな日常をご紹介できたらと思います。

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